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イベント

井藤昌志(いふじまさし)工作展2009.9.15(火)〜10.3(土)

この展覧会は終了しました。ご来場ありがとうございました。

11:00〜19:00 最終日は17:00まで
*日・月・祝 休廊

井藤昌志(いふじまさし)工作展 DM

彫刻としての家具、あるいは家具としての彫刻という新境地を拓いてきた木工作家、井藤昌志が、さらに自らのものづくりの根源に降りて、素材である古材と向き合った新作個展です。

近代技術は、ときとして人がつくった「もの」が放つ強烈な輝きを奪ったと言われて久しくなり、「手しごと」の価値が見直されています。
しかし、井藤は、自らの中に蓄積されて行く知識や技術そのものが、ものをつくる行為から何か大切なものを奪っていくことに気づきました。
長い間その問題と取り組んできた作家は、やがて「作ろうとしないこと」という一つの啓示を受けます。
無心で古材と向き合い、必要なミニマムの工作を施して、素材とフォルムの美を追求した作家の真摯な姿を、一人でも多くの方にご覧いただきたいと思っております。

本当の事を云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない

—谷川俊太郎「鳥羽1」—

「鳥羽1」という詩のなかで、いま詩人は、鳥羽の海辺で真昼の太陽の下に立っている。
ふりそそぐ陽光を浴びる詩人。
その妻と子供たち。
こころ近しい家族とともに旅先にあることの開放感。
「私の妻は美しい 私の子供たちは健康だ」
そう高らかにうたわれた後、冒頭の三行が唐突にみちびきだされる。
「私は詩人ではない」と。

この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!

「この白昼の静寂」とは、いまここの、詩人自身のこころの有り様。
それは、やがて太陽が水平線に沈めば失われてしまうものかもしれない。
「不変の眩しさ!」といいながらも。
人は、一瞬のいとおしさや、うつくしさを、言葉や形や絵に置き換えようとし続けるものだ。
でもその努力は、ほとんど報われることがない。
ギャツビーが追い求める対岸の緑の灯火のように。

それでも人は、生きている限り、その一瞬の光景や心象風景を記録し続けようとするものだ。
言葉や形や絵に置き換えて。
詩人はしかし、その努力を一見、放棄しているように見える。
詩人はただ、「この白昼の静寂」の幸福、
この場限りの一回性の充溢した幸福を告げたいだけなのだ。
詩人であるにもかかわらず、こめられたメッセージや修辞や暗喩もなく、
字義どおり、それしか「告げたい事はない」という。
それはいわば詩の放棄だろう。
だから冒頭の三行が記されることになるのだろう。
「私は詩人ではない」と。

僕が今回の展覧会で試みようとすることは、この詩人の振る舞いに近いかもしれない。
詩人がことばを鍛え、修辞や暗喩の用法を洗練させるように、
木工家は木の扱いに修練や研鑽を積み重ね、いろいろな技法やデザインに力を注ぐ。
それは、それがプロたる所以とばかりに、ふつう、思われている。
それは、確かに木の仕事のために欠かせないものだ。
だが、いつまでもそれだけにとらわれていてはいけない。
たとえば、アフリカの一木から削りだされた椅子がある。
それらの多くは、素人によって自家用に作られた、いわば日曜大工である。
だが、3次元CADや経験を積んだ精緻な加工技術では再現できないsomethingを持っている。

「鳥羽1」という詩は、一筆書きのように一気呵成によまれたものだと思うが、
きらめくような直裁な言葉が読み手のこころを強く打つ。
そこにはおそらく、
詩人がいったん詩を放棄することによって獲得したなにものかがあるからだ。
もちろん、詩作と木工、あるいは工芸をすべて並列に語ることはできない。
しかし、創作の源泉にまつわる部分において、
つまり創り手の生とその発露の秘技的な中核部分においては、
共有し、交響しあうことがらであるはずである。

古ぼけた一枚の板を目の前に置き、目を閉じることからはじめてみる。
作ろうとしないこと。
きっと、途方に暮れてしまうに違いない。
何も手がつかないまま、何日も過ごしてしまうこともあるだろう。
だが、そのような中からしか生まれてこないものがあるのだ。
そのことに賭けてみようと思う。

井藤昌志プロフィール

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