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2008.1
蓜島庸二展「新註結縄文集成」(全48輯)関連企画VOL.2
インタビュー 蓜島庸二「結繩文書集成」を読む
聞き手…季刊『Ars』編集長・石井泉(エディション・ヌース)

1. 表現の多義性(フィクション/死と再生)

石井(以下 Iと表記 ):“本を炭に焼く”というわけですが、しかし灰にしてしまうわけではないので、形態上はやはりこれは一つの「本」であり、しかし、それは読むことができない。しかも結縄文として縛られている。つまりよく云われる「二項対立」、あるいは言葉(文字)と現実の二律背反といった問題を、“本を炭に焼き” 縛るという行為によって、“無”にしてしまうことなくこの中にそのまま封じ込めているように思うのです。
また、あなたはこのサイトの別のところで、「結縄文はフィクション」だといわれたけれど、フィクションというからには、やはりそこに何らかの“読み”を、つまり本としての“機能”、或は“意味”というものをそのまま、ではないにしてもある葛藤状態のまま封じ込めているように思うのです。
だから「炭」であると同時に未だに「本」でもあるわけです。

蓜島(以下 Hと表記):なるほど。面白いご指摘です。
インカの結縄文そのものはフィクションではありませんが、あれもやはりいわゆる文字でない文字、つまりメディアであったわけで、そのほか沖縄の「藁算」ですね。しかしそれをこうして本とともに炭に焼くことによって、モノとしての本ではなく、そのメディア性を強調したかったのですが、そこに実際の用途はありませんので造形的なフィクションですね。
ですから本を炭に焼く、といっても、本というモノを焼くわけではなく、ご指摘のようにその「意味」とか「機能」を焼くわけです。だからこそ、そこに新しいフィクション、グーテンベルクを起点としてITへ、或はおよそ文字というものの始元へ向けての、私なりのフィクションが仮託されるというわけです。
だから、ご指摘のようにそれは、炭に焼いてしまったといっても別の本、つまり観るものにやはり何ものか「読む」ことを要求する、メディアになっているのでしょうね。
また、そこに「焼く」ということの意味もまた生まれてこざるをえないことになります。何か意味の病に憑りつかれたみたいですが、例えばよく云われる「焚書坑儒」というのもやはり一つの権力的な意味で…。ついでに申せば、文字そのものも結縄文も同時に、権力的な意味をその始元から重く湛えてきたし、そこにグーテンベルクが果たした役割はどういうものであったか、というそういうフィクションです。

I:ですからいろいろな点でフィクションであり、フィクションにもいろいろあるのですが、たとえばブルトンの『ナジャ』がそうであるように「未知の物語」と云いますか…。
結縄文にしてもグーテンベルクにしても、一見過去の記憶なわけですが、それを炭に焼くことによって封印し、単線的・一元的な“解決(解消)”を図らずに未来的な予兆のフィクションとして痙攣的に再生への強度を獲得している…。

H:なるほど、一見過去に見えて実は未来的な「予兆」とは全くその通りです。過去のアーカイブは未来の構想のために常に参照される必要のものです。デジタル化によってその意味がとてつもなく広がって来たわけです。

I:そのような、理念と形態といった二項対立もそうですが、表現がひどく多義的ですね。この作品を見て、とにかくまず得体の知れない衝撃を感じるのですが、その元はこれらがかなりスキャンダラスだということにある気がします。
本を焼くという反社会的な行為と、それによって物体(オブジェ)の上にもたらされる悲劇的なイメージ、ケロイドとか、苦しげというよりもエロティックな表情…。
「意味」を焼くというけれど、どうしてもそこに「オブジェ」としての表情があって、まずそこに感動するわけです。またそこにこの作品のスキャンダラスで詩的な強さを感じるのです。

H:私の気持ちとしてはむしろ表面的にはそれを抑えて、もっとクールな表情を獲得したいところですが…。ただ、今の時代、私たちの環境がすでにスキャンダラスなものに満ちていますから…。

I:そうですね。善し悪しは別にして現代は芸術と文化の境目がなくなり、スキャンダルといった言葉さえ死語になりつつあるように思います。“死”さえ、スキャンダルな面、つまり衝撃度が薄められているようにも感じます。
しかし、この作品群には「死と生」という二元論的なものも読み取れます。蓜島さんの言葉では「予兆、破壊と再生」ということになるのでしょうが…。
再生のためには、いちど“ちゃんと”死ぬこと、死なせてあげることが必要です。ここには、焼くということから火葬してそこから炭というものに再生させる、そういう神話的な、やはり“野生の思考”としての儀礼性も読みとれます。別の用途に変換するブリコラージュ、そして、“火”による変成という錬金術的イメージも。“深読み”すぎると言われそうですが。

H:うーん、例えば陶器や炭を焼くのに、いちいち「火葬」というイメージを持たないように、火葬という意識はないのですが、確かに「破壊と再生」ですから「死と再生」或はむしろ「死と転生」といった、ご指摘のように、ある神話的な意味が考えられるかもしれません。
そのノリで云えば、作品の基部をいちいち蜜蝋に浸すのも、構造に強度を与えるばかりでなく、蜜蝋のメルティングポットに浸すことによって、グーテンベルクが、黒く固い男の金属=鉛と、赤く軟らかい女の金属=錫という、反対物を結合するメルティングポットの中から、活字という反復的な多産の文字を発明した、その錬金術的なヘルメスの知と一体になろうとする、それは私の再生乃至転生の秘儀、とも云えます。
グーテンベルグが活版印刷機を発明したことで、メディア革命が一気に拡大したわけですが、私はその機械そのものの発明よりも、むしろこの活字の発明に大きな革命的意味があったと思っています。
まあ、それはともかくとして、華やかな役割を果たしてきた「本」というメディアが行き着いた、ITという時代に向けて、炭という環境を浄化する機能を持つものに「転生」させようというのがこのフィクションの慷概ですね。(つづく

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